隆景と官兵衛から学ぶ

今日は信長の野望より後半であるイベントを紹介します。

コーエーテクモゲームスさんの信長の野望®をプレイしていると見どころのある多くのイベントシーンがあると思います。この間やっと全国制覇をすることが出来まして、その直前にあったシーンが印象に残ったので、紹介します。(全国制覇すると実績ロックの解除がされます!)

今回ご紹介するのはイベント「隆景と官兵衛」です。最初に戦国武将それぞれの紹介をした上でイベントを追いかけてみましょう。

目次

小早川隆景

小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)(1533年-1597年(慶長二年)7月26日)
竹原小早川家第14代当主。毛利元就の三男になります。兄弟に異母兄の毛利隆元、吉川元春がいます。毛利水軍の指揮官としても活躍していますが、豊臣政権で秀吉の信任を受け、五大老に任じられています。実施はいないのですが、養子として、小早川秀秋を迎えて家督を譲っています。

隆景は1583年の賤ヶ岳の戦いのあと、秀吉に従属しています。秀吉の下で四国攻めで武功をあげました。その後1586年の九州征伐にも参加して、大きく信任を得て、筑前、筑後、備前の37万石を与えられました。

豊臣政権下では、後に記載させて頂きます「名将言行録」でも逸話がいくつも残っている武将になります。

黒田孝高

黒田 孝高(くろだ よしたか)(1546年12月22日-1604年(慶長9年)4月19日)
播磨国の姫路生まれの武将です。キリシタン大名でもあり、通称の黒田官兵衛、黒田如水が広く知られています。特に軍師としても有名で、秀吉の側近として竹中重治(半兵衛)と共に「両兵衛」、「二兵衛」と呼ばれていたのは有名です。

元々は小寺政職の近習として土豪を征伐し、初陣を飾っております。1567年には櫛橋伊定の娘・光(てる)を正室に迎えて、姫路城代となっています。その後1575年に信長の才能を高く評価していた孝高は、主君である小寺政職に臣従を進言し、秀吉の取次で岐阜城で信長に謁見し、信長から名刀「へし切長谷部」を授かりました。

1577年には英賀合戦で孝高は500の兵士で毛利氏5,000の兵士を退けたという逸話もあります。この戦いの後、信長は中国攻めを行う口実が出来て攻略を進めました。このころから孝高は秀吉本隊に従い、竹中重治らと上月城攻め、佐用城攻めなどで先陣を務めました。

織田家臣時代に荒木村重が謀反を起こした際に主君の小寺政職も呼応としたことで有岡城に乗り込み、この時1年半の監禁をされて足が不自由になったといわれています。大名としての小寺氏が滅んだあと、秀吉の与力となり、この時から黒田の姓を用いたと考えられています。

1582年、京都で本能寺の変が起きた時に、孝高は秀吉に毛利との和睦をして光秀を討つように献策し、「中国大返し」を成功させたという逸話があります。
1585年には四国攻めで先方として多くの城を陥落させ、1586年の九州征伐では、毛利氏を含む軍勢の軍監として豊前国に上陸して、その後島津義久の軍勢と戦って戦勝しています。戦後は石田三成と共に博多の復興を監督しています。

九州平定後は豊前国の6郡およそ12万石を与えられて中津城を築城しています。
1589年からは家督を嫡男の長政に譲り、孝高は秀吉の側近として引き続き仕えたそうです。

1593年には朝鮮征伐の中で晋州城攻略計画に反対して、秀吉を直接説得するために帰国しましたが、秀吉からは軍令違反ということで朝鮮に追い返されたそうです。この時死罪を覚悟して剃髪して「如水軒円清」と号し、死罪を覚悟して長政らに遺書を残していましたが、秀吉に赦免されました。

秀吉の死後は関ヶ原の戦いで東軍につき、家康側で戦いました。関ヶ原の合戦の後、家康は如水(孝高)にも領地加増などを提示したが、それを辞退し、中央の政治関与せず隠居生活を送ったそうです。
辞世の句は
「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」

名将言行録

私は秀吉に仕えていた孝高がやはり好きで、名将言行録の隆景との逸話は特に好きなものになります。

名将言行録
  • 隆景は黒田如水に対し、「貴殿はあまりに頭がよく、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。私は、貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない。」と指摘した。如水は隆景の訃報に接し、「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆じたという(『名将言行録』)。
  • 「分別とは何か」と質問した黒田長政に対し、「長く思案して遅く決断する。分別の肝要は仁愛で、仁愛を本として分別すれば、万一思慮が外れてもそう大きくは間違わない」と答えた(『名将言行録』)。
               wikipedia小早川隆景より抜粋

信長の野望より「隆景と官兵衛」

上述の事を踏まえてイベントを見てみると、思慮と分別、仁愛の心に関して考えさせられます。
頭が切れて、即断即決してしまう事も大切かもしれませんが、時間をかけて判断することは後悔が少ない。
分別して、長く思案して遅く決断する。この時に仁愛の心を理念にもって決断することは、思慮が外れてもそんなに大きく間違いは起きない。これは考えさせられます。

スピードと変革が求められる世の中ではありますが、やはり仁愛の心は忘れず、物事は決定していく事が大切なんだろうなと、改めて「隣人を愛する心」に関して考えさせられました。簡単にいうと優しい気持ちをもって、人を思って行動していこうって感じですかね。明日からも仁愛の心を忘れず行動していきたいと思います。

上図はコーエーテクモゲームス「信長の野望®」より引用。
文章の参考としてWikipedia:黒田孝高小早川隆景を参考しています。

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この記事を書いた人

のんびりボチボチ生きる「ルーク」と申します。
MR兼ブロガー(これから)になります。
本ブログは主に趣味のゲームと投資を中心に、自身の転職等を自分の経験をもとに発信している個人ブログです。
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